序章「付纏豚始」 |
早崎サオリは、近くの交番では話にならないと思って所轄の警察署まで来ていた。自分がストーカー被害を受けていると説明すると、中年のくたびれた刑事がボールペンを片手でくるくる回しながら、相談室で話を聞いてくれはしたのだが。
「それで、自宅のドアノブにべったりと何かネトネトした液体がふりまけられていて」 「はいはい……たぶんそれは体液だね」 「そうだと思います。それで怖くって」 「それで、犯人は見たのかな。見てなくても心当たりとかは」 「それは、見てないですけど……心当たりもありません」 「相手の人相もわからない、物も壊されてない、身体にも直接被害を受けたわけではないか……ごめんね、現段階ではちょっと警察は動けないな」 「そうなんですか、でも体液だったら指紋とか科学捜査とか!」 自分は不安なんですと、ドンドンとサオリは机を叩く。疲れきった様子の刑事は、慣れているらしく微動だにもしなかった。ゆっくりとサオリを諭すように話す。 「この管区で、今月だけでも殺人が一件に強盗が三件、マンション専門で十数件発生してる、ひどい手口の強姦事件も捜査中のうえに、交通事故もあったからね。申し訳ないけど鑑識も手一杯なんだよ」 「うー、じゃあなにもしてくれないんですか」 「もちろん、近くの交番のお巡りさんに早崎さんの自宅近くは厳重にパトロールしてもらう。犯人もわからない、被害が悪戯程度では、いまうちができることはそのくらい。何か事件が起こったら、また連絡してくださいね」 「何か起こったら遅いのに、警察って役に立たないんですね」 「辛らつだね……ああ、そうだ費用は少しかかるけど、この近くだとストーカー対策専門にやってる探偵事務所があるよ、悪質なストーカーを何件も解決してるところだから、お値段もお手ごろ、警察のOBも参加してるから信頼性も保証済」 そういって、探偵事務所の名刺を渡してもらった。 有料の探偵事務所にたらい回すなんて。これでは税金を払っている意味がない、サオリは少し憤慨して警察署をあとにする。だが、目の前のストーカーの脅威は怖くてどうしようもないので、結局はしょうがなく探偵事務所に電話することにした。
「はい、井伊河探偵事務所です」 「すいません、早崎と申しますが……」 事務所の事務員らしい女の人に、ストーカーらしき人物からの無言電話や、おかしな手紙を投函されたり、ドアノブに体液を振り掛けられたりなどの被害を受けていること。最近歩いていても、よく視線を感じることなどを説明した。 「なるほど、うちはストーカー対策は強いですから。お任せください。十五万で一通り対策した上に、犯人を罠にかけて捕まえるコースと、とりあえず対策だけの五万のコースの二種類がございますが、どういたしましょうか」 「えー、お金そんなにかかるんですか」 払えないこともないが、少し躊躇してしまう金額。それだけの金額があれば、壊れてしまった乾燥機も新しいのに買い換えられる。ストーカーのせいでそんな無駄な出費をと思うと、倹約家のサオリはなんだか悔しくなる。悪いのは自分じゃないのに。 「先にご説明いたしますが、初期費用でこの金額になっております。当社も誇りをもって早急な解決を目指して動きますが、こちらも仕事としてさせていただきますので、特殊なケースで長引いてしまうと別途に人件費がかかってしまうこともございます」 「そうなんですか……あの、もっと安いコースはないですか」 「…………どうしても費用がということでしたら、交通費一万円だけでストーカー対策をやってくれる慈善団体もご紹介できますが」 「えっ! そうなんですか」 「ただ、そこはプロの探偵ではありませんので。うちとは関係ない慈善団体で、費用を払えないお客様にだけご紹介してるんです。当社はもちろん責任もてません。実績もよくわからないので、本当はお勧めできません。大事になってからでは遅いですから、やはり多少金銭的にかかってしまっても、ここはきちんとした対策をプロに」 「うーん、でも一万円のところがあるんでしたら、とりあえずそこで」 「…………分かりました。では電話番号をお教えしますので、メモの用意をお願いします」
教えられた電話番号の先に電話すると、若い男の人の声で「すぐに行きます」とのことだった。今日は有給を取っていたので、すぐに対応してもらって助かるとサオリは気を良くした。 玄関先で、若い男が差し出した名刺には「ストーカー対策心理カウンセラー」とあった。なんかもっともらしい肩書きを並べたような胡散臭い感じだが、ビシッとした高そうなブラウンの背広に身を包んだ長身の超イケメン……とまではいかないが、こっちまで笑いたくなるような朗らかな印象の好青年だった。 しかも、若いのに頼りがいのある大人の男性という風格。柔らかい物腰。素敵な笑顔。早い話がサオリの好みのタイプだったので、とりあえず立ち話もなんだから、上がってもらった。
「あの……お飲み物を何か、お出ししましょうか」 「ああ、それでしたら良いものを持ってきたんですよ」 そういって、男はなにやら高級そうな木箱から乾いた蕾のようなものを差し出す。 「えっと、これはお香ですか」 「中国のお茶なんです、お湯をいただけますか。よかったら早崎さんもどうぞ」 ポットと湯飲みを持ってくると、男はひとつまみ入れてお湯を注いだ。仄かに甘い花のような香りが広がって、蕾のようなものがぱっと花開いた。 「まあ、綺麗ですね」 「香花茶っていうんですよ、乾燥したハーブが開くときに花に見えるので」 男はそういって、美味しそうにお茶を飲んで見せるので、サオリも飲んでみたらとても口当たりが良くて素敵な味だった。サオリもハーブティーは好きなので、カモミールなどをたまに煎じて飲むのだが。それよりも、もっと濃厚で甘みが強いのに後味が良い。こんな種類のお茶があるとは知らなかった。 「とっても美味しいですね」 「それはよかった、リラックス効果があるんですよ。ストーカー被害にあわれた方は、みんな神経質になってますので、緊張を解いて話してもらおうと思っていつも持参しているんです」 そうだった、サオリは話に引き込まれてしまったが、その話で来てもらったのだった。サオリはいままでのあらましを一通り話して聞かせる。男は、話を聞きながらいろいろとメモを取っているようだった、聞き上手なのでつい余計なことまで話してしまう。 サオリは、頼もしい男性に話を聞いてもらうだけでも、今日の憤りとか不安が少しマシになった気がして来てもらってよかったと思い始めていた。 「えっと、確認させてもらいますけど、早崎サオリさん二十三歳、近くの食品会社の事務員としてお勤め、家はこの大きなお屋敷に一人住まい……なんですか」 「ええ……大きいだけで古いですけど」 「それでも都心の近くに、こんな閑静な住宅があるとは思いませんでしたよ」 「閑静じゃなくて、田舎のでしょう」 そういって、サオリは微笑する。 「確かに少し寂しすぎるかもしれませんね。こんな場所に一人では家の手入れも大変だし、防犯的なことを考えても、正直なところ売るか貸すかして、もっと賑やかところに越されたほうがいいかとも思うんですが」 「それを考えたこともあったんですけど、死別した両親が残してくれたこの家だけが形見みたいなものですから。住める限りはここに居たいと思いまして」 「それは、差し出がましいことをいいました」 そういって、男は申し訳なさそうにして、居住まいを正す。 「いえいえ、それにこんな場所は、なかなか売れるものじゃないですからね」 そういって、少し寂しくなった庭に目をやる。雑木はまだ残していたけれど、松の木は手入れが大変すぎたので切ってしまった。やはり、自分ひとりでは駄目なのだろうか。いい人でもいればいいのになと、ちょっと考える。 「彼氏が、出来たのは学生時代に二回で、すでに別れている。いまは付き合ってる方はいない、でよろしいですね」 「そんなことまで聞くんですね」 「もし、これが本当にストーカーならそういう人が容疑者になることもありえますから。仕事上でも心当たりはないんですよね」 「入社してから、同じ社の方に口説かれることは何度かありましたけど、しつこい人はいなかったですね」 「ふむぅ……」 男は、考え込むように庭を見つめた。このおいしいお茶は、リラックスするのはいいのだが、なんだかサオリは心が弛緩しすぎて少しボーとしてしまう。思わず出そうになったあくびを、サオリは恥ずかしげに噛み殺した。
「あのぉ……」 「私のやっているストーカー対策は少し変わっているんですが、早崎さんのケースならお力になれると思います」 「そういえば、ストーカー対策……心理カウンセラーですか」 名刺を見ながら、サオリは聞く。聞き覚えのない職業だ。 「そうです、私は普段は性格改善カウンセリングや、クライアント相手に心理面でのコンサルタントの仕事をしているんですが、その絡みもあってボランティアでストーカー被害に遭われたかたの相談をしていたんですが」 「はい」 「いくつものケースに当たるうちに、被害に遭われる方というのはみなさん似たような性格をされていることに気づくようになりました」 「私も……そうなんですか」 「察しがいいですね、こんなことをいうと失礼かもしれませんがまさにその通りです」 「そうなのですか……」 またお茶を啜ってから、渋い顔で男は言う。 「この仕事をしてますと、探偵さんのお仕事振りを拝見することもあるんですが。たとえば、盗聴器をしかけられていたら、盗聴器を探る探査機。追いかけられたら逆に追いかけかえして捕まえるという風でして。逮捕されても微罪だとすぐに出所して、逆恨みして犯行を重ねる犯人もいます。そう考えると、根本的な解決になっていない場合もありますね」 「それは……そうなのかもしれませんね」 「手口も次第に巧妙になっていきます。イタチゴッコですよ。そうやって、対策のためにかかっていく費用も馬鹿になりませんからね」 「ああ、そうですよね」 サオリはお金の話をされて、深くうなずく。 「そこで、発想を変えて被害者の方の性格を改善しようと思い立ったわけです」 「なるほど」 サオリはよく分かったような、分からないような変な気分だった。 「早崎さんは、几帳面すぎるとか、少し神経質だと言われたことはありませんか」 「えっと……あります」 なんで分かるのだろう。 「広いお屋敷なのに清掃が行き届いている。あとは玄関口で、古いタオルを雑巾に作り直して置いてあるのが見えました」 「あっ……片付けておいたつもりなんですけど、お恥ずかしい」 「いまも、そうやって緊張が出ると指を小刻みに動かしますね」 「あ……そうですね、癖かもしれません」 「いまどき、若い娘さんで雑巾を自分で作る人は珍しいですよ。量販店でただみたいな値段で買えますから。几帳面というよりは……無駄が嫌いな性格をなさってらっしゃるんですね」 「そうですね……どちらかといえば」 「そういうのが良いところにでれば長所なのですが、ストーカー相手だと嫌がらせにたいして過剰に反応してしまって、かえって煽ってしまいかねないんですよ」 「ああ……そういうこともあるんですか」 自分の性格が問題だといわれて、少し釈然としないまでも、言ってることは当たっているような気もした。 「犯人の手口を聞いていると、個人的な感情をぶつけている犯人というよりは……ただの悪質な悪戯ですね。あなたが反応すればするほど過激になっていっているみたいです。子供の悪戯とそう変わりないんですよ、反応すれば面白がってもっとやる、ずっと無視されていれば、最初ムキになってやってくるかもしれませんが、すぐ飽きて新しいターゲットを探すでしょう」 「そういわれてみれば、そうだったかもしれません」 それはサオリが、考えても見ないことだった。 「とはいっても、急に性格を変えろといっても難しいですよね」 そういって、男はサオリの考えを先に促すように笑いかける。 「そうですね、いわんとされていることはわかりましたけど」 生まれつきの性格を変えろといわれても、それはなかなか難しいことだと思う。 「でも、すぐに性格を変えられる方法があるとしたらどうですか」 「えっ……そんなこと急には無理でしょう」 人間の性格を変える方法があるなんて、聞いたことがない。そんなものがあるなら、怒りっぽい人とか改善すればいいんじゃないだろうか。 「最近になって、催眠療法を使って禁煙などを促がす治療がアメリカでよくされるようになりましてね。軽い暗示のようなものなのですが」 「えっと、それって精神治療みたいなものですか」 よくドラマとかで、長椅子に横たわって精神科医が話をしたりするあれだろうかとサオリは思い出した。 「あんな、難しいものではなくて、もっと簡単なものなんですけど。物は試しですから、やってみませんか」 「えっと……少し抵抗があるような気が」 「これも被害者に多いんですが、早崎さんはとても魅力的な容姿をされてますね。仕草も可愛らしいし、目鼻立ちも整っていて……性格も女性的でお優しいと思いますよ」 「いや……そんなことは」 好みのタイプの男性に、こうも面と向かって褒められるとサオリも悪い気はしない。 「だけど、いままでいい男性にめぐり合わなかったのは、どこかナイーブすぎるところがあって、早崎さんの良さがうまく伝わっていないのですね」 「あっ……いえ、そんなことはないと思うんですけど」 「そこらへんも、たぶん少しずつよくなっていきますよ。ほんとに、業務で性格改善をやるならお金とるんですけど、今回は被害者を助けるための慈善事業ですから無料です。五分ぐらいの簡単なものです」 「五分ですか……じゃあ、少しだけ」 「本当は長椅子に寝そべっていたほうがいいんですけど、リラックスしていただけるならそのまま座ったままで結構ですからね」 「はい……」 そういうと、男は何か音楽をかけ始めた。クラシックのようで、ピアノの調べが聞こえてきたり、ゆったりとした中にも糸が張り詰めているような不思議な曲だった。しばらく音楽だけ聴き続けていくと、男はサオリの耳元で「さあリラックスしてください……」と語り始めた。
…………
いつのまにか、サオリは座布団を枕に眠ってしまっていたらしい。「さあ、ゆっくりと目を覚ましてください」というセリフは聞こえたが、それ以外の記憶がなかった。起き上がって、立てかけてある時計を見るときっちり五分だった。 「少し……ウトウトとしてしまっていたみたいで」 「そうですね、大変リラックスされていたということですから、それでいいんですよ。さっきの暗示をレコーダーに録音して置きましたから、寝る前にでも枕元で毎日聞いてください」 「えっと、これってどういう効果があるんでしょう」 「細かいことを気にせずに、ゆったりした気持ちになれますよ。このお茶も一緒に差し上げますから、聞く十分前ぐらいに飲んでくださいね。一ヶ月も繰り返せば、かなり状況は改善されると思います」 「ストーカー被害も止まりますか」 「そうですね、嫌がらせがまったく効果がなくなれば、犯人もつまらなくなって止めると思います。しだいに気にならなくなると思いますから、少しの辛抱ですよ」 「あの、ありがとうございました。お茶とか、レコーダーも、本当にいただいて結構なんですか」 「どれも仕事に使用するのに安く仕入れてるものですから、そんなに高いものではありません。交通費とあわせて一万円で結構です」 ああ、いい人なんだなとサオリは改めて好感を持った。一万円を封筒にいれて男に渡すと、男は「大丈夫だと思いますが、万が一気になることがあったら必ず連絡をください」とだけ言い残して、洋々と去っていった。 さて、この広い家にまた一人になってしまったなあとサオリは少し寂しく思うのだった。サオリが休日に一人家に居ても、することは掃除や洗濯などの雑事を片付けて早めに風呂に入って寝てしまうだけだ。
「我ながら、寂しい生活をしているなあ……」 そういって、サオリが身体を手にボディーソープをつけてごしごしあらって湯船につかって、出ようと思ったときに気がついた。 「あっ……しまった、お風呂場の窓の鍵が空いてる」 こんなミスをするのは始めてだった。しかもほんの少しだけ隙間が空いていて、いま誰かが覗いていたといわんばかりだ。怖くなったが、こっちから覗き込んでもその隙間から誰かの目が見ているということはなくて、ほっとする。ホラーは苦手だ。 それでも、気になってガラリと窓を開けてみると、近くの茂みがガサゴソと音を立てた気がした。 「……」 サオリは、さっさと身体を拭いて服を着てしまうと、お風呂場の外の窓を調べて見ることにした。ちょっと、怖い気持ちがあったが、夜に一人で外を調べるなんて大胆なことが出来てしまうというのは、例の性格改善なんたらのおかげかもしれない。一回やっただけなのにすごい効果だ。茂みも入念に箒で突いてみたが、誰かや何かの動物が隠れているというわけでもなさそうだった。 「気のせいかな……」 そう呟いた瞬間に気がついた。例のドアノブについていたのと同じ、汚らしいドロドロの液体がお風呂場の窓の前に付着している。サオリは無言で、庭からホースを引っ張ってくるとシューーと水を当てて汚れを落とした。 「これでよしっと」 サオリも性経験もあれば、男性の出す体液のことも知っているので、ここで何があったのか想像できないこともなかったが、不思議と気にならなかった。この程度のこと、たいしたことはないような気がしてきた。女が一人で生きていくには、強くならないといけないのだった。
「ふふっ……」 思わず楽しくて笑ってしまう。前のサオリだったら、もうあんなことがあったら家に篭城するようにキツク施錠をして、雨戸を閉め切ってブルブルと震えながら眠れない夜を明かしただろうに、いまは戸締りもいい加減で、ゆっくりと自分の部屋でもらったお茶を飲みながらくつろいでいる。 初めて、あの正体の分からない不気味なストーカーに勝った気がして嬉しかった。 明日は、むしろこっちから攻勢にでてやってもいい。そう、サオリは思いながら、貰ったレコーダーをかけてあっという間に寝た。
昨日ものすごく早く寝たので、起きたのはまだ朝日が昇る時刻だった。今日は出勤だが、まだそれまでには時間がある。朝ごはんを作って、普段作らない昼の弁当まで作っても、時間が余る。 「よし!」 そう思って、夜のうちに洗濯機で回しておいた自分の洗濯物を庭に堂々と干した。下着も寝巻きも関係なしで、全部干す。もう、ストーカーを怖がって厳重に施錠した自分の部屋に日陰干しは止めだ。 今日は天気がいい、すごくよく乾くだろう。見事なノーガード戦法に、ストーカーの奴はどう反応するか、意外に思うだろうか。むしろ何かあるのが楽しみなぐらいだった。弁当を抱えて、意気揚々と会社へと出向いた。 久しぶりに頭がすっきりとしていて、仕事がはかどってしかたがなかった。普通の事務員であるサオリは五時退社である。しかし、いつものようにすぐには家には帰らず駅前によって、安売り店で予備の下着を買いあさる。これまでの、ストーカーの行動から考えて、下着が全部無事に残っているとは考えられないから。多めにそろえておくべきだ。 「別に、綿パンとかでいいよね」 特に見せる人もいないのだし、贅沢する必要もない。秘蔵の勝負下着は、悲しいかな勝負されないままでタンスに眠っている……そうだ、もしかしたら、下着だけじゃなくて他の衣服までやられているということはないだろうか。 これまで、それはなかったのだが。しばらく考えて結局、ストッキングを数枚とできるだけ安く済みそうな下着をいくつか揃えで購入した。こんなに一気に買ったのは去年の旅行以来だ。そうして、家に帰ってきてサオリが見たものは、綺麗さっぱりと消えているブラとパンティーだった。 「全滅……ちょっとここまでやるなんて」 下着を買ってきてよかった。まさか大量に干したのが全部とは、さすがに予想もしてなかった。 「もうしかたがないけど、靴下までいくつか消えてるのはなぜ」 靴下は本当に予想外だった、あんなもの盗んでなんに使うのだろう。また買い足しておけばいいけど、地味な出費でちょっとむかついてくるサオリ。取るんだったらせめて金を置いていけといいたいぐらいだ。プンプンと怒りながら洗濯物を畳んでると、下にいくつか下着が落ちてることに気がついた。 「あっ……よかった」 黒地に白い刺繍が入ったお気に入りのやつで、そこそこ高かったやつだ。犯人が、慌てて取っていったから落としたのだと思ってそのパンティーを拾い上げると、手にドロッとした液体がついた。 「あっ……そういうことか」 別に、手に粘液がついても気にはならなかった。前なら、絶叫して青くなり倒れこんで、一週間ぐらいショックで落ち込んでいたかもしれない。でも、こんなもの手を洗ってしまえばそれでおしまい。手と一緒に、パンティーの様子を調べてみると、股の布が厚くなっているクロッチ部分に黄色がかった精液がタップリと付着していた。 精液は、白いのしかみたことなかったので、黄色が混じったのが出る人もいるのかと冷静に観察する。もしかすると、おしっこしたのかもしれないけど、おしっこがこんな粘り気があったりはしないだろう。 さすがに匂いまで確かめて見る気には、ならないけどもう手に遠く持っただけでクリの花のような蒸せた匂いが充満している。時間が経っているせいもあるのだろうが、こんなに強烈な匂いは初めてだ。 この黄色いのが、自分の染みってことはありえないだろうなあ。そんなことを、思いつつ、手と一緒にソープで洗い流す。 「元気なこと……」 いったい犯人は何度射精したのだろう。若い男なのだろうか。こんな形で汚されたパンツとブラが数点……ブラジャーは胸の膨らみの部分に射精してあった。とんでもない変態であることには違いない。 汚された下着を全部手洗いしてから、また洗濯機に一緒にいれて洗濯する。 「まあ……これでもしかするとなくなるかもね」 自分が汚した下着までもが、平然とまた洗濯に出されていたらどう思うだろう。「私はこんなことぜんぜん気にしてないんだぞ」という意思表示。さすがに、嫌がらせストーカーもこれは無駄だと悟って、取っていかないんじゃないだろうか。そう思うと、むしろ次の洗濯物を干すのが楽しくなってくるサオリであった。
夜、男からもらった中国のお茶の残りを確認すると五十粒はある。 「一ヶ月でいいとかいってたような……まあ二ヶ月やっても別にいいのだけど」 そういって、サオリはお茶を飲んでその日も死んだようにぐっすり眠ってしまう。また早朝に、意気揚々と洗濯物を堂々と干すのであった。とりあえず、今日は買ってきた下着を穿いておく。 「自分が汚したはずの下着が洗濯されておいてあったらストーカーはどうでるかな」 向こうの出方を待つのが、むしろ楽しみなぐらいだった。
仕事を終えて帰宅すると、下着は一つもなくなっていない。 「よし! もしかしたら、諦めたのかも」 そう思って洗濯物を取り込んでいると、今度は飾り気のない安物の白いパンティーのこれまたナイロン生地のクロッチの部分にたっぷりと射精されているのに気がついた。 「そう簡単にはいかないか……また黄ばんでる」 黄ばんだ精子の出る人が犯人とかいっても、警察はとりあってくれないだろうなと思いつつ、汚されていたのがそのパンツだけだったので、それだけ手洗いしてまた洗濯物のローテーションにまわした。 「こうやって数日やってるうちに、終わるかもしれない」 最初の、むしろストーカーに挑戦してやるんだという気持ちは薄れて、たんたんと気にせずに相手に対処するという感じになってきた。慣れてしまうと、これもたいしたことないと思えてきた。 お風呂に入っていると、またお風呂場の窓の鍵を閉め忘れたことに気がつく。しかも、また隙間が空いていて、そっと確認したら人の目が覗いている。髪の毛も顔の輪郭も湯気で分からない、分かるのは小さい隙間から目が覗いているということだけだ。 普段なら恐怖しすぎて、腰が抜けてもおかしくないシチュエーションだが、この日のサオリは冷静であった。まず、相手を刺激するか刺激しないかを冷静に考える。ヘタに刺激しては被害が広がるのではないか、相手は覗いているだけなのだから、たいしたことはないんじゃないだろうか。 別に生娘というわけでもなし、少し不気味で嫌な気持ちはあるけれど、いまさら裸など見られても減るものでもない。 そんなことを考えながら、惰性で身体を洗い、相手の目が見えない浴槽に深々と浸かってまだ考え続けて。そうして、浴槽から上がって確認したらもう人は居なくなっていた。「ふうむぅー」という感じ。 相手はこっちが気がついたことに気がついて逃げたのだろうか、それとも分からないまま退散してしまったのだろうか。どっちでもいいことかもしれない、無事に済んだのだから。 風呂にあがってから、服を着て現場を見に行くとやはり浴槽の壁が精液でべっとりとしていた。よく確認するとやっぱり黄ばんでいる。犯人の特徴的な精液、すぐにホースで水をかけてしまう。 「あれ……これはもしかすると」 次の日に、下着に被害がなかったので、それは確信に変わった。男性というものは、たしか何度も早々に射精できるものではなかったはず。風呂場を覗かせて、壁に出させてしまえば下着は無事というのは理屈だ。 「これはいいかもしれない」 むしろ、サオリは堂々と風呂の窓の鍵を常に開けておくことにした。そうすると、下着への精液付着の被害はなくなった。あとは、目が覗いているのさえ気にしなければ平穏な生活が戻ってくるわけで、それもいつかは止むであろうと思えば、サオリは心安らかに数日間普通に生活を続けるのだった。
数日間は平和のうちに過ぎたのだが、また異変が起き始める。 「下着がひとつない……」 青と紺のスプライトが入った綿パンが多分なくなった。このまえ買って来たやつだ。日頃の生活パターンを変えるわけにもいかないから、やはり風呂場の窓を開けて見せながら入浴している。きちんと、目はこっちを見ている。 もう「なんで見せてるのに、パンティー取ったの?」と覗いている人に聞いてしまおうかと思うぐらいだった。 風呂から上がって、現場を確認していくと、べっとりと精子のかけられたやはりスプライトのパンティーが落ちていた。 「なるほど……こういうことね」 つまり、犯人は今度はサオリのパンティーと裸体を一緒に楽しむ方法を覚えたということなのだった。なかなか厄介で、すぐに対処法は思い浮かばない。 「まあいいか……」 パンティーも一枚手洗いして、次の洗濯のローテーションに回せばいいだけのことで、「明日着る下着がないよぉー」という事態にならなければ、当面は問題はない。 お風呂場を覗かれている上に、下着でオナニーしたパンティーが落ちているということがしばらく続いたが、落ちてるものは洗ってまた乾かせばいい。もう放置しておくことにした。
そんなある日、毎日のように盗まれていた下着が盗まれていないことに気がついた。むしろ、もう一枚ずつ盗られるのが日常になっていたので、なくなっていないことに少し驚いたぐらいだった。 そうして、いつもの時間にお風呂に入っているのに、窓から人が覗く気配がまったくしない。もう心配になって、ガラッと窓を開いて周りを確認してしまった。それでも、あたりに人の気配はまったくしない。 「えっと……これってつまり」 サオリはストーカーに勝利したということなのだろうか。 ついに相手は、無視をし続けるサオリに飽きて、違うところにいったということなのだろうか。 そうだとしたら、すごく嬉しいが、反面またこの大きな家で一人で取り残されてしまったという小さい悲しみがあった。両親が相次いで他界したのは、サオリが二十歳を過ぎたころのことで、ちょうど彼氏とも小さいいざこざが原因で別れてしまっていた。悪いことは続くものだ。精神的にすごく落ち込んで、大学もいかずに家で閉じこもるようにしてしばらく過ごしていたなあと思い出す。そのころに比べたら、今はすごく健全な生活ともいえる。 「なんで、私はこの家に残ろうって決めたのだっけ……」 形見だから。でも、家にいたらどうしても一人じゃなかったころの生活を思い出してしまうのに、なのにいまも私はここで一人でいる。 「寂しいよう、お父さん……お母さん」 サオリは、二十歳を三年も過ぎて立派な社会人になっているのに「まるで子供のようだ」ともう一人の自分が自分を情けなく思って笑う。それでも、一人を寂しがる子供は、きっとサオリの心の中に居て、やはり寂しくてしかたがないのだった。 孤独は慣れるけど、なくなることはない。 思わず長湯してしまったなと、風呂から上がる。身体を拭いて、新しい下着を着ようと思って気がついた。替えに置いておいた下着にべっとりと精液が付着している。 「またやったな……」 まさかと思って、脱いで洗濯槽に入れた下着もパンティーがドロリとなっている。ちゃんと手洗いしないと、洗濯機まで汚れちゃう。困ったものだ。 困ったものだ、嫌だなあとは思ったのだけど、不思議と寂しさは消えていた。もうちょっとだけ、サオリとストーカーの戦いは続きそうな気がした。 明日はどんな手で攻めてくるのか。ちょっとだけ楽しみで、すごく迷惑。
朝が来て仕事して夜が来て、広い家を毎日ちょっとづつ掃除して洗濯物も取り入れて。風呂にさっと入って、すぐに上がるとそこにいた人間と鉢合わせしてしまった。
「桑林課長……」 「やっ……やあ」 会社の資材課長をしているおっさんが、下半身裸で立っている。しかも、股間には今日サオリが穿いていた青いレースが入った布パンティーを撒きつけて。 「ストーカーって、桑林課長だったんですか」 「ちが……違う! これは違うんだ……」
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