幸助が朝の電車に乗り込むと、待ち構えていたように……というか、本当に待ち構えていたらしい美世がジトっとした目で睨みつけてきた。朝の停滞した空気がいっぺんに冷える。 美世に獲物を狙う猛禽類みたいな目で見つめられて、目が覚めた。 「なんで、この時間にこの車両に乗るって分かったんだ」 「そんなことはどうでもいいよ。さあっさあっさあっ! こうちゃんとあの金髪美少女が、どういう知り合いなのかキチキチと説明してもらいましょうかね」 「あのな……」 不機嫌そうだが、そのわりに楽しそうでもある美世に首根っこを掴まれる。朝からこんな詰問を受けるとは思っても見なかったが、きちんとした言い訳を用意しておいてよかったと言うべきだろう。 幸助の説明は、ルシフィアは安西マサキに興味を持っていて、学校でのマサキの唯一の友達である幸助に近づいたというものである。実際、ルシフィアが幸助の能力に気がついたのはマサキに注視を向けていたからでもあるし、嘘というわけでもない。 「ふーん、よろしい。なるほど納得した」 「えっ、もう納得したのか」 激しい詰問だったので、あっけないほど早く納得されて逆に幸助は驚いた。 「うん、ルシフィアちゃんがあの魔王に興味を持つのはわかるもの」 「えー、そうなのか、どうしてだ?」 いつのまにか逆に聞き返していた。 「幸助くん魔王の友達なのに知らないんだ……魔王は普通科なのに全国模試ですごい好成績だったんだよ。なんで特進科に来ないのか分からないぐらい」 「そうなんだ、それは知らなかったな」 美世は顔が広いというか、学校の揉め事に顔を突っ込むのが趣味みたいなところがあるから、こういう話をよく知っている。 「ルシフィアちゃんも、噂だと一年ではトップクラスでしょ。私の推理では、たぶん魔王が同じ一年で模試に名前が近いところにあったから気になったんだよ」 「なるほどなあ」 「いやー、変な理由だけどあの金髪美少女と話せてよかったじゃん!」 そういってバンバンと背中を叩かれた。機嫌が直ったのはいいのだが、狭い車内ではた迷惑な女だった。 おそらく美世の推理は間違っている。あのルシフィアが、ただ成績がいいというだけでマサキをマークしていたわけがない。もしかすると、マサキも何かの能力者なのだろうか。聞いても素直に教えてくれるかどうか分からないが、探りを入れてみる価値はあるかもしれない。
二限目の終わりだった。幸助は少しでも疲労を回復しようとして、寝ようと机に伏せた顔をすぐさま起こした。 濃厚な気配を察知したからだ。この意味ありげな視線には心当たりがある。 ふっと廊下を見ると、一瞬何かが見えた気がした。いや、気がしたのではなく見えてしまったことは認めざる得ない。 すこし、無言で考え込んだが、幸助は諦めたように立ち上がると廊下に出る。 今度は、階段を駆け上っていく淡い金髪が見えた。 いや「見せているのよ」ってわざとらしさだ。二年の教室に、ルシフィアが他に用があるわけもないだろう。 相手の「ついてこい」という明確な意図を感じて、思わずこのまま気がつかなかったことにして自分の席に戻りたくなる。 「はぁ……」 平和条約か脅迫かは知らないが、いまの幸助の立場で誘いを断るのは得策ではないだろう。 ため息ひとつついて、歩いて階段を登っていく。やはり、屋上の昨日と同じフェンスにもたれかかりながらルシフィアが満面の笑みで待っていた。 「……何のつもりだ」 「ははは、まんまと誘い出されましたですね!」 腰に手を当てて、仁王立ちだ。二人の間を、乾いた空気が一陣の風となって吹き抜けていく。 「……」 帰りたい、自分の席に帰って寝てしまいたい。ルシフィアはこっちの心が読めるはずなのだから、言わなくてもそんな幸助の気持ちは理解しているはずなのだが。 「私に聞きたいことがあるのでしょう。せっかく来てあげたのに挨拶もなしですか」 たしかになぜ、マサキをマークしていたのか聞きたいとは思っていたのだが……わざわざ十五分の休憩時間に屋上まで呼ぶことはないだろう。 「それに、もうちょっと、普通に誘えばいいだろう」 「あなたの席までいってお誘いすればよかったんですか」 「……それも困る」 「せっかく言い訳がうまくいったのに、また隣の美世さんがどういう化学変化を起こすか心配だからですよね」 そういってクスリと笑うのが幸助の癇に障る。どうして、ルシフィアと会うのに美世に言い訳しなければいけないのかという揶揄もこめた笑いだろう。少なくとも、幸助はそう受け取った。 「時間がない、用件を済まそう」 「…………結論から先にいうと、安西マサキさんは普通の人間です」 「そうか」 少し安心した、マサキとは気の置けない友達でいたかったからだ。少なくとも、この目の前の金髪少女のように、お互いの能力を誇示しあって牽制するような付き合い方はしたくない。 「美しい友情ですこと……ただ、マサキさんは後天的に大変訓練を積まれたらしくて、人の心を操る術を心得ているようです。バックにも組織のようなものがあるみたいですが、今のところ私の脅威にはなりえません。ただ警戒だけはしているということですね」 そういって、なぜか詰まらそうに言った。ルシフィアにとって、幸助とマサキが仲良くしているのは面白くないのだろう。 「用は済んだな」 そういって、幸助は帰ろうとするのだが。 「あの魔王は、つまらない男ですよ……あなたが付き合うほどの価値はありません」 はっきりと聞こえた呟きに、幸助の足が止まる。 「俺が何を考えているか分かっているのだろう、挑発のつもりか」 「いいえ、私は事実をいったまでです」 「友達に対する侮辱は許さない、お前がマサキくんに手を出すことも……」 振り返って、幸助は読心女を軽く睨みつける。釘を刺しておく必要を感じた。 「あの男は、この学校の半分を自分の支配下に置いただけで満足している小人ですよ。魔王? ……ふっ、笑わせます。人の心を気ままに操って、自分の欲望を満たしているだけの下郎です」 「だからなんだ……友達であることに変わりはない」 ルシフィアは、何かを探すように幸助を見つめてきた。何を探すというのだろう、幸助は怒りをもって見つめ返すだけだ。周りの光を全て吸い寄せるような、深く青い瞳の奥には何かの感情の色が見えた気がした。今の幸助には、それは分からない。 ルシフィアは人の心が読める。人の心が読める力は、たとえばこの屋上に幸助を誘い出したように、いろいろと応用が利く。不信を煽って、マサキと幸助を分断するつもりなのかもしれない。そこまで思考したときに、ルシフィアが頭を下げてきた。 「いえ……すいませんでした。私にはあなたの交友関係に口を出す権利も、こちらから魔王に手出しする意志もありません」 「分かればいい、こちらも声を荒げてすまなかった」 「すまなかったなんて思ってないくせに」 心が読まれる相手とは、本当に会話がやりづらい。 「まあ、もう帰る」 「では、また……」 ルシフィアの声を後ろに聞きながら、振り返らずに階段を駆け下りた。またといわれても、ルシフィアと話す用事は幸助にはもうない。
昼休み、教室から美世たちが弁当箱を抱えて楽しそうに出て行くのを見送って、そろそろ自分も昼飯にするかと腰を上げた。今日も特に何もないので、食堂にいくことになるだろう。前にも言ったが、友達のマサキが席を確保していてくれるので、席取りに急ぐ必要はないのだ。 廊下に出たとたんに、すごい勢いで走ってくる女の子がいた。細身の割には、女性らしい体つきをした女の子、たしか昨日食堂で見かけたマサキの彼女の一人の……希ちゃんだったか。 「よかった、教室に居てくれましたか」 そういう希ちゃんは、なんだかとても顔色が悪かった。 「居たけど、どうしたの」 「とにかく早く食堂にいってください」 「いや、昼食時だから俺もいまから行こうとは思ってたけどさ」 「ご飯まだ食べてないですよね」 変なことを聞く、食べてないから食堂に行くのだろうと答えると。「よかった」とよく見ると意外に豊からしい胸を撫で下ろした。 「いったいどういう」 「マサキがピンチなんです、とにかくあのままだとマサキが死んでしまうかもしれない、急ぎでお願いします。私は申し訳ないけどもう駄目、しばらく何も食べられません……ううぅ」 そういって、苦しげに口を苦しげにハンカチで押さえながらトボトボと歩いていった。ピンチと聞いて、もしかしたらルシフィアが何かしたのかと慌てて食堂に向かう。でも、何も食べられないってどういうことだ。 食堂に入ると、マサキが机に突っ伏しているのが見えた。隣には、不機嫌そうにマサキを見つめている女の子が座っている。マサキに女の子が付属しているのは、いつものことなので驚きはしないが、あのダントツにいい容姿には見覚えがある。あれはたしかマサキの本妻って娘じゃなかっただろうか。 幸助が近づいていくと、マサキは顔を上げて「ああっ……よく来てくれた」と苦しげな声を吐き出した。まるで地獄で仏に出会ったような目の輝きであったが、その顔には明らかな死相が浮かんでいた。 机の上には、ランチシートが広げられ、小麦色の物体が大量に並んでいた。様々な形に焼き上げられたそれは、たぶんパンなのだろうが、なぜか幸助に縄文土器を思わせた。 「こんにちわー、たしか二年の富坂先輩でしたよね」 「ああっ、こんにちわ……えっと」 「一年の鳥取ツバメです、マサキの友達です」 そういって、幸助にはよそ行きのスマイルを浮かべてくれた。その可愛らしい笑顔は、なんとなく美世に似ているなと思ったけど、やっぱり似ていない。美世の何倍かは綺麗で、胸が二周りぐらいでかくて、そしてマサキに向ける顔が百倍ぐらい険しい。 「えっと、これはどういう?」 「パンです」 「はい?」 「パン」 ツバメはそういって、その縄文土器風のパンを千切ってマサキの口に放り込んだ。マサキは、それをゆっくりと咀嚼してから身体を痙攣させ「おいしいなあ」と魂が抜けるような声で叫んだ。数秒置いて「でもそろそろお腹が一杯だなあ」と、辛うじて聞こえる声で呟いた。 状況はよくわからなかったが、現状はわかった。つまり、ツバメがマサキにパンを食べさせているのだ。 「そうだ……幸助くんもご飯まだだったよね」 そういって、マサキがこっちに身を乗り出してきた。何故か、手が合掌のポーズをとっている。つまり、これは食ってくれというお願いなのだろう。 「富坂先輩も、もしよかったらどうぞ。たくさんありますから」 そういって、またパンを千切ってマサキの口に中に放り込んだ。壊れた機械のように「おいしい」を繰り返している。幸助にはそのおいしいが「たすけて」に聞こえた。 「じゃあ……遠慮なくいただこうかな」 それなりの覚悟を持って、目の前の縄文土器を一つ手に取る。多少形はおかしいけれど、外見上も手触りも普通のパンである。朝焼いたものなのだろう、千切って匂いを嗅いで見ると香ばしい小麦の香りがした。 なんだ、普通においしそうじゃん。そう思って、幸助は口に入れた。 その瞬間に、幸助は宇宙を見た。 深遠なる宇宙空間に、一人幸助は漂っていた。何も見えず、何も聞こえず、どちらが地面かも分からない不安に押しつぶされそうになっていた。宇宙はただの人が生きていけるほど甘い環境ではない。その真っ暗い地獄の中で、幸助は絶叫して……。 「……で、マサキのやつが私の料理を食べたいっていうから、炊飯器でパンが焼けるっていうのをやってみたんですよ」 どうやら、身体のいくつかの感覚が異常をきたしていたらしい。決して不味いわけではない。これは不味いとか、もうそういうレベルではない。神経に異常をきたす薬物でも混入しているのか。徐々に身体の感覚が戻ると共に、目の前のツバメが楽しげに喋っている言葉も聞き取れるようになっていた。 「お味はいかがですか?」 ツバメが、何かを期待しているような輝く瞳で幸助を見上げていた。可愛い娘の妹的な上目つかいは卑怯すぎるのではないか。高一の分際で、机の上に乗せられるほどの巨乳も、制服からのぞく蠱惑的な胸の谷間も全てが校則違反に該当する。そうして、その隣では死ぬほど青い顔の友達がこちらを拝むように手を合わせていた。 諦めたように腹筋に力をいれると、幸助は声を絞り出した。 「……おいしいなあ!」 「よかった……もっと食べてください!」 たっぷりと三十分かけてなんとか幸助は、縄文土器パンを一つ食べ終えた。これをアフリカに配れば食料問題が解決するかもしれない。同時に、人口問題も解消するかもしれない。 昼休みが終わるチャイムをこれほど待ち焦がれたのは、初めての経験だった。
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