第七章「けもののこころ」 |
「かける……」 ルシフィアの目の前で、マサキが倒れていた。そこには寄り添うように円藤希の姿が見える。殺気ルシフィアに負けたときでさえ、冷静な表情だけは崩さなかったのに、ぐったりとしたマサキにすがりつくようにしている希はどうだろう、彼女のあんなに蒼白な顔は始めてみた。 「幸助さん……誤解しないで、私は何もしてないですよ! 話しかけたら、彼が勝手に倒れたんです」 ルシフィアが、駆けつけてきた幸助に気がついて声をかける。それには答えずに、幸助もマサキに駆け寄る。息はあるが、完全に意識を失っている……外傷はない。 「あの……」 なおもルシフィアはなにか、言ってこようとするのを幸助は手で制する。 「ああ分かってる、言っていることは信じる。だがここは下がってくれ」 「私、まだ何もしてないのにすごく悪者っぽいですね……」 ぶつくさいいながらも、ルシフィアは自分の分が悪いと悟って大人しく去る。 もちろん、それがこっちの思考をさぐりつつの行動であることは幸助にも見えている。学校内で彼女に隠し立てできることなどはない。 希が何も言わずにマサキの巨体を軽々と抱きかかえた。 うわ、相変わらず、すごい力だな。 「富坂先輩、とりあえず保健室まで運びます」 「いや、このままマサキを病院か自宅まで運ぼう。保健室じゃだめだ」 「でも……」 「いいから! 俺も付き添うから早く外へ連れ出すんだ」 「わかりました」 普段の希なら、自分の意志を曲げなかっただろうが、本当に動揺していたらしい。幸助が強く押し切るとしぶしぶマサキを抱えてついてきてくれた。代わりに背負うと申し出た幸助の言葉は拒絶されてしまったが。
案の定、学校を少し出たところで、マサキは目を醒ました。 「んんっ……忍法死んだふりの術、とりあえず成功のようだ」 「マサキ……大丈夫なの?」 マサキは、心配そうに覗き込む希に笑顔で無事だと答える。 「やっぱり、気絶したふりだったか」 幸助だって馬鹿ではないので、それには気がついていた。そのマサキの意図を察して、幸助は連れ出したのだ。ルシフィアの読心が届かない距離へと。 「……読心術が効いてないことを察知されないためには、それしか方法がなかったからなあ」 マサキが口惜しげに答える。ルシフィアは、すでにマサキに読心術が効いているかに、不信感を持っていた。質問を投げかけられたときに、それに気がついたマサキはすぐに自己暗示をかけて、意識を失ったそうだ。ふりではなくて本当に気絶していたということ。 そのあたりは、やはりマサキらしい徹底した処断だ。 マサキは顔をしかめながら、ポツリポツリと二人に話す。円藤希の暴走も半ば計算のうちだったこと、本当はそこで勝負がつくかもという算段もあった。 「ほら伝説の生き物『サトリ』が、燃える薪から散った火花でびっくりして逃げ出したって昔話もあっただろ、だが偶然に期待するなんて、甘すぎたな……」 少なくともルシフィアは、伝説の妖怪『サトリ』よりよっぽど厄介だなと、マサキは悔しげに呟いた。だが、マサキもさらに奥の手は打っておいたのだ。希と一緒に、鬼の力に対抗する術を持つ平賀芽衣子を潜ませておいたこと。ルシフィアがマサキに疑惑を持ったなら、それはそれでいい。 そちらへとルシフィアの注意を集中した瞬間を利用して、幸助に封鬼の守りを与える。たしかに一番怪しまれないタイミングとはいえたが。 「まあ、これでぼくはゲームセットだな」 そういって、自嘲するように笑って、マサキは話を終えた。 「これからどうするんだ……」 そう尋ねる幸助にマサキは答える。 「ぼくはこう見えても、昔はいじめられっ子で引きこもりだったんだ。まあ、しばらく学校に行かず引きこもりに戻るだけだな」 「いつまでだ」 そういって、幸助はマサキを見る。 「幸助くん、君がルシフィアを支配するまで……かな」 そう静かにマサキは幸助の心を見通すように言った。 「支配って……」 「希の家についたね、ついでだから、今日はここで休むことにしよう」 希が、ゆっくりとマサキを抱き下ろして家の鍵をあける。円藤希の家は、結構学校に近く街の郊外にあった。ごく一般的な平屋の日本家屋だった……隣に大きな道場がくっついている以外は。 野外でも、胴着を着て訓練をしている男たちがいて、防具もなしで木刀で思いっきり打ち合っていた。大人でもヘタすると骨が折れる危険な訓練だ。庭に入ってきたマサキたちを見ると、みんな手を止めて深々と礼をする。 「いったい……これはなんの道場なんだ」 殺気だった雰囲気と、空気を切り裂くような剣戟の音に幸助は思わず総毛立つ。掛け声をあげないで打ち込みなんて、剣道の技ではない。 これはもっと実戦的な……。 「ただの護身術です」 希がそっけなく答える。 「いや、だって木刀で訓練って尋常じゃないだろ!」 「護身術です」 希は、それ以上なにも話してくれそうになかったので、諦める。 「あっ……マサキお兄ちゃんいらっしゃい」 中学生ぐらいの、可愛らしい娘が出迎えてくれた。希とよく似ているので姉妹なのだろうかと思ったらやっぱりそうだ。 「妹の望です」 同じ「のぞみ」だけど、字が違うらしい。なるほど、円藤家の姉妹は、二人あわせて『希望』ということらしい。 「希、すまないが一番奥の客間を借りるぞ。幸助くんと話がある」 「ここはあなたの家ですから、お好きに」 そういって、希は別の部屋に行ってしまった。平屋だけど結構広いみたいだ、それと赤ん坊の声が聞こえる。にぎやかでいいことだ。
一番奥まった畳敷きの部屋に入る。外側からみるとそう新しい建物とも思えなかったのだが、奥座敷は、老舗旅館の一室のような新しい畳の香りがする、落ち着いた雰囲気の和室だった。マサキは幸助に深々と頭を下げた。 「まず……謝らせてくれ、幸助くんは大丈夫だと言ったのに。ぼくにはルシフィアに君が取り込まれて支配されていくようにしか見えなかったんだ。それを放って置けなくて手を出してしまった。いやこれも、ぼくのただの嫉妬かもしれない」 「マサキくんは友達として心配してやってくれたことなんだろう。だったらぼくは逆にお礼をいう立場だよ」 「そういってくれると、気が楽になる……あいにく菓子は切らしてるんだが、せめて友達に一杯、茶を献じよう」 そういって、マサキは奥から茶器を取り出し、慣れた手つきで抹茶を点てる。さすがに瀟洒な日本家屋、本格的な茶器までも揃っているようだ。幸助は、抹茶は苦いモノという印象しかなかったのだが、マサキが点てたものを飲んでみると意外と爽やかな口当たりに驚く。苦いどころか、渋みの中に仄かに甘みが広がる。 淹れ方がうまいのか、使っている茶葉が良いのかは幸助にはわからないが。初めて飲んだ抹茶というものは、思ったより後味のよい飲み物であった。香りもとても爽やかで心が落ち着く。これなら昔の人が好んで飲んだというのも、分からなくもない。 幸助は勧められるままに何杯か所望して、しばし安らぐ。今日は疲れることばかりだったから、静かな座敷にシャカシャカと響くマサキの茶を点てる音は、弛緩した空気を作り出し、幸助の気持ちを軽くさせた。 「それで、俺はこれから何をしたらいいのかな」 そういって、空気を変えるように幸助は切り出してみる。 「その前に、これは前にも言ったがいいたくなければ……」 マサキが何を言いたいのか、幸助には分かる。もう秘密にする必要はない。 「いや、言うよ。俺は時間停止の能力を持っているんだ。だからルシフィアが俺を取り込もうとしているならそれが理由だ」 「そうか……驚いたな」 そういいながらも、マサキはそう驚いた様子ではない。 「信じられないか?」 「フフッ……ハハハハッ、この期に及んで信じないことはない。だが、時間停止能力はさすがにお目にかかるとは思わなかった。もう知っているのかもしれないが、ぼくは催眠術の類をいくつか操ることができる」 「うん、ルシフィアから聞いたよ、便利な能力だね」 「時間停止能力者が何をいうかだな……その力は王を通り越して神にも迫る力だぞ。どんな強者でも、君を怒らせたら次の瞬間になす術もなく寝首をかかれる」 「俺自身は、もてあましてるんだけどな」 そういって、幸助は困った顔をする。 「そうだろうな……能力を得た当初はそんなものだ。力が大きければ大きいほど、その力は人の手に余るものだ。しかし、ぼくがたまたま選んだ友人がこれとは……運命というものを信じたくなる」 「運命としても、皮肉なものだと俺は思う」 「違いない……それでどうする。ルシフィアを殺すか?」 そういって笑いかけるマサキの目は鈍く光を放っていた。この男なら、相手が異能力者であろうとも、一人や二人すぐ殺せるという迫力。魔王と忌み嫌われ、人々に蔑まれる男。 だが、そのような力を持ちながら、自制できるのがマサキだと幸助はすでに知っているので恐ろしくはない。 「まさか……それはないな」 面白い冗談を聞いたと、そういう風に返してやる。マサキが鋭い極論を投げかけたとき、彼は半ば本気で検討している。ただこちらに会話を投げかけたというのは、幸助の意志を聞いているのだ。幸助にはそれが分かるから、それを冗談にすることで拒否の意志を示したのだ。 「フッ……もちろん、いってみただけだ、最初からこれはそういう勝負ではない。ただ始末するなら、犠牲を厭わずに、ここの道場の人間で囲んで切り刻むことも可能ではあるとは思うが……」 「それは、考えたくない話だな」 「この街では佐上家の力も馬鹿にはできないうえに、あの化け物が相手だ。犠牲がたくさん出そうな最悪の手段だが、やむを得ぬときもあるだろう」 犠牲を覚悟していると言外に含めて、マサキは話を打ち切る。 「そうならないように、俺がなんとかするさ」 その友人の答えに満足げに頷いて、立ち上がったマサキは襖を開けて望を呼ぶ。 「なにー、マサキ兄ちゃん」 バタバタと、可愛らしく音をさせながら望がやってくる。姉とは対照的に、そこまで四肢が引き締まっておらず、代わりにとても女性らしいフォルムを描いている。身体全体が丸みを帯びているようで、中学生の女の子にしては、ちょっとぽっちゃり目かもしれない。 「いいから、ちょっとここに座ってイヤリングをはずしてくれるか」 「はーい」 そういって、イヤリングをはずした途端に幸助は絶句した。 「なっ……えっ」 目の前に突然現れた……否。たしかにそれはそこにはあったのだが。 今まで『見えなかった光景』を知覚して驚きのあまり、二の句が次げない。 「もういいよ、イヤリングはちゃんと付け直しておいてな」 「うん、誠ちゃんたちの世話があるからいくねー」 また、バタバタと走っていった。イヤリングをつけた途端に、でっぱったお腹が普通の状態に戻ったように見えた。つまり、望の女性らしすぎる身体はこの結果であって。 「妊娠させてたのか……マサキ」 「そうだ、見せたほうが早いと思ったからな。ちなみにここにいる赤ん坊はみんなぼくが産ませた子供だぞ。希が言っていただろう。ここも、ぼくの家だからな」 「そうか……」 「ぼくを非難したくなったか」 「いや……俺もすでに近いことをやってしまっている」 山本姉妹に、すでに中だししてしまっている。妊娠しているかもしれない、結果を考えたこともなかったが、やりきるということはこういうことなのだ。 「力を得た男がやることは、変わらないからな」 「そうだな、否定できない」 マサキは、現実を見せ付けられて困惑しながらも、決意を決めたらしい幸助を見て嬉しそうだった。 「これで、ぼくは幸助くんと本当の意味で友達になることができたな、この催眠アクセサリーはたくさん作ったからいくらでも提供できる」 「……共犯者ということか」 幸助はきっといま、喉が渇いているだろう。マサキはそう思ったから、もう一杯の茶を煎じてやるとやはり砂漠を行く乾いた旅人のように、無心でゴクリと飲み干した。 マサキも、たどってきた道だ……分かりすぎるほどに分かる。 幸助はいま、大きな壁にぶち当たってそれを乗り越える決意はした。 だがそれを身体に刻んで成長するには、その垂直の壁を登っていくだけの力を得るには、まだ時間と経験が圧倒的に足りないのだ。 マサキだって、それを分かるためだけに人を一人壊しかけてようやく理解したこと。幸助が『共犯』という言葉を選んだのは、すでに大きな力そのものが凶器であり、使うことは罪悪であることをすでに自覚しているに違いない。 (ぼくの友人は、ぼくよりも賢い) だから、マサキにはそれが愉快だった。自分よりも大きな異能を持ち、同じように臆病で、それでいて違う賢さを持つ友と歩んでいくことが出来る。それがたとえ地獄へと至る道であったとしても、道行きはやはり、にぎやかなほうがいい。 「ああ……ぼくたちは共犯だ、そして助け合える」 マサキは、手ぬぐいで手を拭いてから、幸助に向かって差し出した。拭いたところで、拭えぬ罪がすでにこびりついている手を。 幸助は、息を吐き出してしまうと、意を決したように手を力強く握り返す。 「あらためてよろしく、安西マサキ」 「富坂幸助、ぼくは君を歓迎する。ようこそ、獣の世界へ」 マサキは、かつて誰かに手を引いてもらったように、幸助の手を握り締めて引っ張りあげてやるつもりだった。そうして、飛び上がった幸助が、思いのほかマサキよりも高く飛んで、また自分を引っ張り返してくれる日もくるかもしれない。 目の前の友達の見果てぬ可能性、それを伸ばしてやれる喜び。初めて人を導く立場でマサキが笑ったのは、ああこれは始めて父親になったときと、よく似ているなと思ってしまったからだった。
催眠アクセサリー。安西マサキが、師匠から与えられたものを長い期間をかけて改良したものだった。催眠術を長期に使用したときに発生する「回りの人間に怪しまれる」という問題を解決するもの。 このアクセサリー自体が、装備者を微量の催眠電波で包み込み、性的なものに限り本人と周囲の認知を誤認させる効果がある。これさえつけていれば、股から精液を垂れ流していようが、生理が止まっていようが、妊娠の兆候が現れていようが、本人も周囲もそれをおかしいものとして認識することはない。 機能を性的なものに限定しているのは、安全管理上の問題でその微調整には苦労があったからなのだが、それはここでは語るまい。催眠電波の大本にはマサキ宅に巨大な増幅装置があって、その催眠領域の関係上、効果は吾妻坂市の周辺に限られているというのがこのアクセサリーの限界である。 製作者がアクセサリータイプにしたのは、単純に携帯に便利というだけではなく、複数の術者が近くいた場合に「これは自分のもの」という縄張りを明確にするためという意図もある。催眠術師は群れない獣のようなものという製作者の設計思想、いまのマサキと幸助の関係がまさにそうであるが、共存するにはお互いの縄張りをしっかりさせておくことが、未然に争いを防ぐ上で重要なのだ。
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